【音楽】シャウト・トゥ・ザ・トップ/スタイル・カウンシル(1984)
先日ピチカート・ファイブを取り上げた時に思ったのだが、90年代の音楽はオリジナル・ラヴ以外には聞いていた音楽が無いというほどの状態だったことがわかった。
では80年代はどうかというと、YMO散開以降は同じような状況だった。
単発的に聴いていた音楽はあったと思うので、それらを思い出しながら、80年代音楽をちょっと特集してみよう。
「シャウト・トゥ・ザ・トップ/スタイル・カウンシル(1984)」
スタイル・カウンシルは、1982年に結成されたイギリスのポップ・バンド。
リーダーのポール・ウェラー(Vo.&Gt)とミック・タルボット(Kb)が中心となり、サポートメンバーを加えて4人で活動することが多かった。
1983年の「スピーク・ライク・ア・チャイルド」がヒットし、続くこの曲で一躍人気者となった。
多様化した音楽性が仇となり、1990年にバンドは解散する。
1983年リリースのファースト・アルバム「カフェ・ブリュ (Cafe Bleu)」と全英1位を記録したセカンド・アルバム「アワ・フェイバリット・ショップ(Our Favorite Shop)」は、名盤として語り継がれている。
一般的にはこの「シャウト・トゥ・ザ・トップ」が一番有名かも知れない。
当時としてもシンプルでありながら先鋭的な、それでいて少しばかり古臭い、実に「ソリッド」なサウンドだなぁ。
「SHOUT TO THE TOP/STYLE COUNCIL」
では80年代はどうかというと、YMO散開以降は同じような状況だった。
単発的に聴いていた音楽はあったと思うので、それらを思い出しながら、80年代音楽をちょっと特集してみよう。
「シャウト・トゥ・ザ・トップ/スタイル・カウンシル(1984)」
スタイル・カウンシルは、1982年に結成されたイギリスのポップ・バンド。
リーダーのポール・ウェラー(Vo.&Gt)とミック・タルボット(Kb)が中心となり、サポートメンバーを加えて4人で活動することが多かった。
1983年の「スピーク・ライク・ア・チャイルド」がヒットし、続くこの曲で一躍人気者となった。
多様化した音楽性が仇となり、1990年にバンドは解散する。
1983年リリースのファースト・アルバム「カフェ・ブリュ (Cafe Bleu)」と全英1位を記録したセカンド・アルバム「アワ・フェイバリット・ショップ(Our Favorite Shop)」は、名盤として語り継がれている。
一般的にはこの「シャウト・トゥ・ザ・トップ」が一番有名かも知れない。
当時としてもシンプルでありながら先鋭的な、それでいて少しばかり古臭い、実に「ソリッド」なサウンドだなぁ。
「SHOUT TO THE TOP/STYLE COUNCIL」
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可否・六分儀 閉店
盛岡市茸出町にある喫茶店「六分儀」が閉店したという悲報が入った。
昭和の風情を残す「純喫茶」と呼ぶにふさわしい、現在では異空間とさえ思える佇まいが好きで、盛岡に行くと必ずと言っていいほど寄っていた。
コーヒー一杯で、実にゆったりとした時間を過ごす事が出来た。
店内にはシャンソンやジャズが流れ、タイムスリップした気分になれた。

しかもこのシャンソンやジャズは、全て当時物のアナログレコードであり、盤面の傷やチリノイズなども聞こえてくる。
当然コーヒーも美味しい。
オレの定番は、上に生クリームを乗せた「ウィンナーコーヒー」。

その日のスペシャルブレンドや、コロンビア、マンデリンなども実に美味しく頂ける店だった。
そして、レジスターではなく、店員さん自らの手書きのレシートがまた味があってイイ。
盛岡に住む人なら知らぬ人はいないと言われるほどの老舗喫茶店だった。
それだけに、閉店の知らせはあまりにもショックだった。

しかもこの悲報、なんと細野晴臣のライブにて細野さんの口から聞いたのである。
喫茶店好きの細野さんは、盛岡に来ると必ず寄るという六分儀に出かけたのだが、訪れた前日に閉店したとのこと。
この話を聞いていた客席からは、「えっ!?」というどよめきが上がっていた。
もちろんオレもそのうちの一人。
その後店に行ってみると、店先には短い感謝の言葉とあいさつの言葉が書かれた貼り紙があった。
初めての細野晴臣ソロライブは、こうして悲喜こもごものライブ体験となったのである。
ああ、残念過ぎるが、新たな喫茶店を開拓しないと・・・。
またひとつ、盛岡から名店が消えた。
昭和の風情を残す「純喫茶」と呼ぶにふさわしい、現在では異空間とさえ思える佇まいが好きで、盛岡に行くと必ずと言っていいほど寄っていた。
コーヒー一杯で、実にゆったりとした時間を過ごす事が出来た。
店内にはシャンソンやジャズが流れ、タイムスリップした気分になれた。

しかもこのシャンソンやジャズは、全て当時物のアナログレコードであり、盤面の傷やチリノイズなども聞こえてくる。
当然コーヒーも美味しい。
オレの定番は、上に生クリームを乗せた「ウィンナーコーヒー」。

その日のスペシャルブレンドや、コロンビア、マンデリンなども実に美味しく頂ける店だった。
そして、レジスターではなく、店員さん自らの手書きのレシートがまた味があってイイ。
盛岡に住む人なら知らぬ人はいないと言われるほどの老舗喫茶店だった。
それだけに、閉店の知らせはあまりにもショックだった。

しかもこの悲報、なんと細野晴臣のライブにて細野さんの口から聞いたのである。
喫茶店好きの細野さんは、盛岡に来ると必ず寄るという六分儀に出かけたのだが、訪れた前日に閉店したとのこと。
この話を聞いていた客席からは、「えっ!?」というどよめきが上がっていた。
もちろんオレもそのうちの一人。
その後店に行ってみると、店先には短い感謝の言葉とあいさつの言葉が書かれた貼り紙があった。
初めての細野晴臣ソロライブは、こうして悲喜こもごものライブ体験となったのである。
ああ、残念過ぎるが、新たな喫茶店を開拓しないと・・・。
またひとつ、盛岡から名店が消えた。
11月27日は降臨祭
1日遅れてしまったが、11月27日は、オレの中の八百万の神の一人であるブルース・リーの生誕の日だ。
去年は幸運にも、ブルース・リーの映画を映画館で観る機会に恵まれた。
いつまで経っても、当時4歳だったオレの心に刻まれた記憶は褪せる事は無い。
それでも一般的には「本当に強かったのか?」という疑問が多いのも事実。
体格差というものが、格闘の世界において大きなアドバンテージになっているのも事実だし、映画で描かれているのは誇張した表現であることも事実だ。
しかし、1964年にアメリカで行われた武道大会に、デモンストレーターとして登場しているフィルムがある。
それを見る限り、やっぱりこの人は実際に強かったんだと思うわけだ。
その一部がこれ。
単発の技術として有名な「1インチパンチ」や「6インチパンチ」を見てみると、腕力や体格ではなく、いかに力を一点に集中して伝えるかに重点を置いていることがわかる。
片手の親指と人差し指だけでの腕立て伏せ、目隠しをした状態での「パクサオ」と呼ばれる組み手、フルコンタクトのスパーリングなど、師父が後の格闘界に与えた影響は大きい。
「総合格闘技の父」と呼ぶ事に異論を唱える人は多いが、間違いなく新たな風を吹き込み、間接的であるにしろ、後継者を数多く生み出したことは事実。
人種差別のるつぼであった時代に、東洋人がアメリカで活躍することなど不可能に近かった。
それが後に、ハリウッドのメジャースタジオのマークの付いた映画で、トップクレジットを飾ることになるのだから、その当時のマイノリティと呼ばれている人たちにどれほどの勇気を与えたか想像もつかない。
文字通り、「自己表現」を世界共通の認識の下に貫き通した人物だったのであろう。
去年は幸運にも、ブルース・リーの映画を映画館で観る機会に恵まれた。
いつまで経っても、当時4歳だったオレの心に刻まれた記憶は褪せる事は無い。
それでも一般的には「本当に強かったのか?」という疑問が多いのも事実。
体格差というものが、格闘の世界において大きなアドバンテージになっているのも事実だし、映画で描かれているのは誇張した表現であることも事実だ。
しかし、1964年にアメリカで行われた武道大会に、デモンストレーターとして登場しているフィルムがある。
それを見る限り、やっぱりこの人は実際に強かったんだと思うわけだ。
その一部がこれ。
単発の技術として有名な「1インチパンチ」や「6インチパンチ」を見てみると、腕力や体格ではなく、いかに力を一点に集中して伝えるかに重点を置いていることがわかる。
片手の親指と人差し指だけでの腕立て伏せ、目隠しをした状態での「パクサオ」と呼ばれる組み手、フルコンタクトのスパーリングなど、師父が後の格闘界に与えた影響は大きい。
「総合格闘技の父」と呼ぶ事に異論を唱える人は多いが、間違いなく新たな風を吹き込み、間接的であるにしろ、後継者を数多く生み出したことは事実。
人種差別のるつぼであった時代に、東洋人がアメリカで活躍することなど不可能に近かった。
それが後に、ハリウッドのメジャースタジオのマークの付いた映画で、トップクレジットを飾ることになるのだから、その当時のマイノリティと呼ばれている人たちにどれほどの勇気を与えたか想像もつかない。
文字通り、「自己表現」を世界共通の認識の下に貫き通した人物だったのであろう。
高校サッカー新人戦見聞録
中学校の新人戦が終わり、少年団の新人戦も終わり、フットボールシーズンも終わりに差し掛かる頃、高校の新人戦の情報が舞い込んできた。
これまでお世話になってきた方々の協力を得て、方々の試合結果を得ることが出来た。
元教え子達も、それぞれの舞台に散って活躍していることから、知りたい情報は増える一方で、こちらとしてはうれしい悲鳴だ。
あくまでも伝え聞いた情報の羅列なので、実際とは異なるかもしれませんが書いてみましょう。
これじゃ「見聞録」じゃなくて「聞録」だな。
まずは最も多くの教え子達が集っている福岡高校。
初戦は大東と対戦し、12-0という大差での勝利の情報。
大量得点も去ることながら、失点0というのは大いに評価出来る。
さらに、前半4-0で後半8-0という、攻め疲れの無い印象の得点経過というのも良い。
2回戦の相手は専大北上。
ここには0-10で敗れたようだ。
専北は近年力をつけてきており、強豪校の仲間入りを果たさんとするチームなので、仕方ないで片付けたくは無いが、やむを得ないというところだろう。
前半で0-8というスコアでは、圧倒的だったと言わざるを得ない。
事実、遠野を破ってそのまま決勝まで進んでいる。
慰めのつもりは無いが、1勝している事実は変わらない。
結果を残したと言って良いだろう。
後で調べたが、12点差というのは今大会の中で、盛岡市立対一関工の試合と並ぶ最大得点差での勝利だった。
さてその竜人、亮弥のいる市立。
1回戦はシードで、2回戦からの登場。
その2回戦で12-0と勝利している。
この試合には亮弥が出たらしい。
竜人はどうだったのかな?
3回戦の水沢戦では1-2と惜敗。
トーナメントでの1点差ゲームの悔しさは半端じゃなかっただろうなぁ。
県北チームでは、福岡工が黒沢尻北に0-4で破れ、軽米は岩泉との連合で臨むも、花北青雲に0-2で敗れている。
勇雅のいる盛岡中央は、その軽米・岩泉を下した花北青雲に2-1で勝利。
続く試合では盛岡誠桜に0-0で、PK戦の末に敗れたという。
久慈の拓実が10番を背負って出場し、勇雅もビッグチャンスに恵まれたが決め切れなかったとか。
色々と情報が入ってくるにつれ、来シーズンはもっと試合観戦に行こうと思う今日この頃だ。
オレの膝の状態から考えて、もう少年団での活動にも限界が来ている。
真剣勝負の場での審判はもう出来ないだろう。
何らかの形では関わって行きたいが、「兵隊」としての戦力にはなれない。
なので、少年団以外のフットボールシーンというものに触れる機会を増やし、見識を広めていきたいと思っている。
もちろん二戸FCの大会は観戦に行くつもりだし、4審で良ければ手伝いはするつもりだ。
審判の後継者としては、祥汰が4種大会の県大会デビューしたので、後釜は出来たと思っている。
今後は、中学校の試合観戦、高校の試合観戦、さらには浅里の所属するフットサル北東北リーグの観戦、果ては他の少年団のスタッフの指導内容を見学したり、自分自身が動ける限界までの鍛錬など、ひとつの視点にこだわらない関わりを持ちたいと思っている。
こういった人との繋がりというものが、いかに自分の財産になっているかということを、こういう記事を書くたびに再認識するのでございます。
これまでお世話になってきた方々の協力を得て、方々の試合結果を得ることが出来た。
元教え子達も、それぞれの舞台に散って活躍していることから、知りたい情報は増える一方で、こちらとしてはうれしい悲鳴だ。
あくまでも伝え聞いた情報の羅列なので、実際とは異なるかもしれませんが書いてみましょう。
これじゃ「見聞録」じゃなくて「聞録」だな。
まずは最も多くの教え子達が集っている福岡高校。
初戦は大東と対戦し、12-0という大差での勝利の情報。
大量得点も去ることながら、失点0というのは大いに評価出来る。
さらに、前半4-0で後半8-0という、攻め疲れの無い印象の得点経過というのも良い。
2回戦の相手は専大北上。
ここには0-10で敗れたようだ。
専北は近年力をつけてきており、強豪校の仲間入りを果たさんとするチームなので、仕方ないで片付けたくは無いが、やむを得ないというところだろう。
前半で0-8というスコアでは、圧倒的だったと言わざるを得ない。
事実、遠野を破ってそのまま決勝まで進んでいる。
慰めのつもりは無いが、1勝している事実は変わらない。
結果を残したと言って良いだろう。
後で調べたが、12点差というのは今大会の中で、盛岡市立対一関工の試合と並ぶ最大得点差での勝利だった。
さてその竜人、亮弥のいる市立。
1回戦はシードで、2回戦からの登場。
その2回戦で12-0と勝利している。
この試合には亮弥が出たらしい。
竜人はどうだったのかな?
3回戦の水沢戦では1-2と惜敗。
トーナメントでの1点差ゲームの悔しさは半端じゃなかっただろうなぁ。
県北チームでは、福岡工が黒沢尻北に0-4で破れ、軽米は岩泉との連合で臨むも、花北青雲に0-2で敗れている。
勇雅のいる盛岡中央は、その軽米・岩泉を下した花北青雲に2-1で勝利。
続く試合では盛岡誠桜に0-0で、PK戦の末に敗れたという。
久慈の拓実が10番を背負って出場し、勇雅もビッグチャンスに恵まれたが決め切れなかったとか。
色々と情報が入ってくるにつれ、来シーズンはもっと試合観戦に行こうと思う今日この頃だ。
オレの膝の状態から考えて、もう少年団での活動にも限界が来ている。
真剣勝負の場での審判はもう出来ないだろう。
何らかの形では関わって行きたいが、「兵隊」としての戦力にはなれない。
なので、少年団以外のフットボールシーンというものに触れる機会を増やし、見識を広めていきたいと思っている。
もちろん二戸FCの大会は観戦に行くつもりだし、4審で良ければ手伝いはするつもりだ。
審判の後継者としては、祥汰が4種大会の県大会デビューしたので、後釜は出来たと思っている。
今後は、中学校の試合観戦、高校の試合観戦、さらには浅里の所属するフットサル北東北リーグの観戦、果ては他の少年団のスタッフの指導内容を見学したり、自分自身が動ける限界までの鍛錬など、ひとつの視点にこだわらない関わりを持ちたいと思っている。
こういった人との繋がりというものが、いかに自分の財産になっているかということを、こういう記事を書くたびに再認識するのでございます。
細野晴臣 ライブツアー in 岩手県公会堂 おまけ
先日行ってきた細野晴臣ライブツアー。
オレが観てきた岩手県公会堂の模様が、オフィシャルの動画としてアップされていたので貼り付けておきます。
どんなライブだったかは、これを見れば大体わかります。
曲目は「Susie Q」。
デイル・ホーキンスの1957年の楽曲がオリジナル。
その後、1964年にはザ・ローリング・ストーンズ、1968年にはクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、1990年にはスージー・クワトロがカバーしている。
オレが観てきた岩手県公会堂の模様が、オフィシャルの動画としてアップされていたので貼り付けておきます。
どんなライブだったかは、これを見れば大体わかります。
曲目は「Susie Q」。
デイル・ホーキンスの1957年の楽曲がオリジナル。
その後、1964年にはザ・ローリング・ストーンズ、1968年にはクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、1990年にはスージー・クワトロがカバーしている。
細野晴臣 ライブツアー2017 in 盛岡
なんと、あの細野晴臣がライブで盛岡にやってきた。
ニューアルバム発売に合わせてのツアーで、盛岡がラインナップされていたのだ。
70歳も過ぎた細野さんのライブを見る機会など、この先盛岡では無いかも知れないという事で、早速チケット購入に取り掛かったのだが、軒並み「SOLD OUT」の文字が・・・。
どこへ行ってもチケットは無く、情報を入手したのが遅かったこともあって、諦めざるを得なかった。
だが2日後、ダメもとで問合せしたところ、1枚確保する事が出来た。
当然即買い。
ということで、ライブ当日と相成った訳である。
今回のライブは、ニューアルバムのツアーでもあるため、ニューアルバムのコンセプトである「スウィング」、「ブギウギ」が中心となった。
音楽ジャンルはスウィングとブギウギだが、そこには「細野ワールド」とか言い様のない独特な世界が広がっていた。
さすがは半世紀にも渡って、日本の音楽シーンをリードしてきた重鎮だけあって、そのパフォーマンスは圧倒的だった。
まさに奇跡のようなライブだった。
ということで、ライブでは残念ながら演奏しなかったが、ソロワークとしての代表曲を貼り付けておこう。
名盤「はらいそ」より。
このアルバム、ベース・細野晴臣、キーボード・坂本龍一、ドラム・高橋幸宏という、のちにYMOを結成する3人が、YMO以前に初めて揃ってセッションしたものである。
今はこういう独特の感性を持つミュージシャンが現れなくなったなぁ。
「はらいそ/細野晴臣(1978)」
余談だが、なぜ諦めたチケットが手に入ったかというと、チケットの売れ行きを考慮して、本来客席の後ろ側に設置する機材スペースを開放してくれたからなのである。
細野さんが提案してくれたのかどうかはわからないが、お陰でライブを観る事が出来たということで、何ともありがたい話である。
またひとつ、生涯で記憶に残るライブ体験が出来た。
「PARAISO/HARRY HOSONO」
ニューアルバム発売に合わせてのツアーで、盛岡がラインナップされていたのだ。
70歳も過ぎた細野さんのライブを見る機会など、この先盛岡では無いかも知れないという事で、早速チケット購入に取り掛かったのだが、軒並み「SOLD OUT」の文字が・・・。
どこへ行ってもチケットは無く、情報を入手したのが遅かったこともあって、諦めざるを得なかった。
だが2日後、ダメもとで問合せしたところ、1枚確保する事が出来た。
当然即買い。
ということで、ライブ当日と相成った訳である。
今回のライブは、ニューアルバムのツアーでもあるため、ニューアルバムのコンセプトである「スウィング」、「ブギウギ」が中心となった。
音楽ジャンルはスウィングとブギウギだが、そこには「細野ワールド」とか言い様のない独特な世界が広がっていた。
さすがは半世紀にも渡って、日本の音楽シーンをリードしてきた重鎮だけあって、そのパフォーマンスは圧倒的だった。
まさに奇跡のようなライブだった。
ということで、ライブでは残念ながら演奏しなかったが、ソロワークとしての代表曲を貼り付けておこう。
名盤「はらいそ」より。
このアルバム、ベース・細野晴臣、キーボード・坂本龍一、ドラム・高橋幸宏という、のちにYMOを結成する3人が、YMO以前に初めて揃ってセッションしたものである。
今はこういう独特の感性を持つミュージシャンが現れなくなったなぁ。
「はらいそ/細野晴臣(1978)」
余談だが、なぜ諦めたチケットが手に入ったかというと、チケットの売れ行きを考慮して、本来客席の後ろ側に設置する機材スペースを開放してくれたからなのである。
細野さんが提案してくれたのかどうかはわからないが、お陰でライブを観る事が出来たということで、何ともありがたい話である。
またひとつ、生涯で記憶に残るライブ体験が出来た。
「PARAISO/HARRY HOSONO」
【音楽】スウィート・ソウル・レビュー/ピチカート・ファイヴ(1993)
代表曲であるにもかかわらず、アレンジのやかましさでハマりきれなかったピチカート・ファイヴの「東京は夜の七時」。
その個人的な不満が解消されて発売されたのがこの曲。
この曲は野宮真貴の声の魅力が堪能出来る。
「スウィート・ソウル・レビュー/ピチカート・ファイヴ(1993)」
「これぞ渋谷系」と言っても過言ではないサウンド。
シングルとして発売され、CMソングとしても使われ、ピチカート・ファイヴの知名度を一般に認知させた曲だ。
この曲は「東京は夜の七時」と同じ「構造」を持つもので、姉妹曲と言ってもいい。
この時期の音楽は、この「渋谷系」に代表されるもので埋め尽くされており、ピチカート・ファイヴをはじめ、オリジナル・ラブやフリッハーズ・ギターなどが「渋谷系」に分類されていた。
要するに「オシャレな音楽」という括りだったのだろうが、オシャレで音楽を聴くということに抵抗があったオレは、「渋谷系」という言葉が嫌いだった。
オリジナル・ラブは渋谷系じゃないと思っていたし、実際に田島貴男は自身のライヴで「オレは渋谷系じゃない!」と叫んだというエピソードもあり、ホッとしていた。
「渋谷系」と言われる音楽のルーツを探っていくと、1975年に結成され、たった1枚のアルバムを残したのみで解散し、山下達郎や大貫妙子の在籍していた、日本の音楽史上に大きな足跡を残す伝説のグループ「シュガー・ベイブ」に行き着く。
「SWEET SOUL REVUE/Pizzicato Five」
その個人的な不満が解消されて発売されたのがこの曲。
この曲は野宮真貴の声の魅力が堪能出来る。
「スウィート・ソウル・レビュー/ピチカート・ファイヴ(1993)」
「これぞ渋谷系」と言っても過言ではないサウンド。
シングルとして発売され、CMソングとしても使われ、ピチカート・ファイヴの知名度を一般に認知させた曲だ。
この曲は「東京は夜の七時」と同じ「構造」を持つもので、姉妹曲と言ってもいい。
この時期の音楽は、この「渋谷系」に代表されるもので埋め尽くされており、ピチカート・ファイヴをはじめ、オリジナル・ラブやフリッハーズ・ギターなどが「渋谷系」に分類されていた。
要するに「オシャレな音楽」という括りだったのだろうが、オシャレで音楽を聴くということに抵抗があったオレは、「渋谷系」という言葉が嫌いだった。
オリジナル・ラブは渋谷系じゃないと思っていたし、実際に田島貴男は自身のライヴで「オレは渋谷系じゃない!」と叫んだというエピソードもあり、ホッとしていた。
「渋谷系」と言われる音楽のルーツを探っていくと、1975年に結成され、たった1枚のアルバムを残したのみで解散し、山下達郎や大貫妙子の在籍していた、日本の音楽史上に大きな足跡を残す伝説のグループ「シュガー・ベイブ」に行き着く。
「SWEET SOUL REVUE/Pizzicato Five」
二戸FC 新人戦の巻
6年生の最後の大会となった全日本が終わったと思ったら、すぐさまやってくるのが次の世代の初陣となる新人戦だ。
計らずも負ってしまった膝の怪我により、今回は帯同審判の役目を放免となり、純粋に試合を見守る立場からの観戦となった。
いつも思うことだが、新人戦が始まる前あたりまでの新チームにおいて、「まとまり」という点で不安視する事が多く、今回もその懸念があった。
これが無かったのは、亮弥世代と去年の太地世代くらいのものだったかも。
ともかく一度試合が始まったら、こちらの都合を考えて試合をしてくれるチームなど無い。
相手だって勝ちを目指しているわけだから、こちらがそれに対して受身になっていたのでは試合にすらならない。
予選二日目は個人的な都合で帯同出来なかったため、初日のレビューだけになりますが。
<第1試合>
二戸 4 - 1 一関南
<第2試合>
二戸 2 - 3 高田
初戦の一関南戦。
開始早々から前半終了までの緊張っぷりというか、慌てっぷりたるや。
ますボールが足に付かない。
初の公式試合なんてそんなものかもしれないが、いつものいい意味での緊張感の無さはどこへ行ったのやら。
そんな中でも前半のうちに1点取ったのは幸いだったと言える。
ほんのわずかでも気持ちに余裕を持つ要素が出来たからだ。
サイドからの展開も思うように行かず、中盤の真ん中では判断の遅さから潰される場面が続き、攻撃に関してはあと一枚欲しいところ。
ハーフタイムにて小野寺代表に、「蓮がどこかでリスクを犯して、勝負所を見つけられるかがポイントでしょうね。」と話していたのだが、全くその通りの展開となり、蓮のドリブル突破から立て続けに3点追加することが出来た。
センターバックでありながら、攻撃の要にもなる必要がある蓮にとっては大変な重労働だったとは思うが、そこはキャプテンとしての責務だと自覚してもらえれば言う事無しだ。
実際それで結果も出している。
ただ、最後の1失点は面白くない。
ベンチメンバーも多く交代させたとは言っても、守備のメンバーは変わっていないはずなので、勝ちが見えたことによる油断だったと言わざるを得ない。
ちょっと厳しい意見かもしれないが、こういうところは今後の課題としてしっかり取り組む必要がある。
高田戦においては、個人的には実にいい試合運びをしたと思っている。
パスワークに関しては、太地世代のチームよりも良く出来ていると思えるシーンが多かった。
個の能力に絶対的な自信がある選手がいないという事もあるのかもしれないが、実に面白い連携が見られた。
崩されたわけではない失点が重く圧し掛かった。
ほんのわずかな対応の遅れ、寄せの甘さが、相手に付け入る隙を与えてしまったという感じだった。
こちらの失点は全て自分達のミス、得点は積極的な仕掛けからの「奪い取った」点だったという評価だ。
観る事が出来た試合だけの話になるが、ポイントとなることは「タイミング」ではないだろうか。
先にも述べたが、守備においては相手に寄せるタイミングであったり、攻撃においてはシュートの決断をするタイミングだったりと、様々な場面がある。
相手にボールが納まる前に寄せる、相手にボールが納まったと思ったら寄せるタイミングをうかがうというような判断。
相手に寄せられる前にゴール前にクロスボールを入れる、トラップしている間に寄せられると思ったら思い切ってダイレクトプレーに打って出るというような判断。
これらのプレーの判断をするタイミングというものが大事になってくると感じた。
あとは全体的にポジショニングの大切さを理解出来ればと思う。
自分が今どこにいるのかを把握することは、次にどこを狙うのかという先のプレーのイメージを作り出すことに繋がってくる。
身体能力は必要だが、それだけで勝ちあがれるほど甘いスポーツではない。
もっともっと「考えて」プレーする癖をつけていって欲しい。
二日目は花巻銀河に0-2、GROWSには二桁失点で負けたとかで、結局は1勝3敗で大会を終えたようだが、高田戦の惜敗はもちろんのこと、一関南に勝ったというこの1勝が、余計に悔しさを感じる要素になってくれればと思う。
悔しい思いをしなかった者は、おそらくここで立ち止まることになるだろう。
悔しい思いをする事ほど、次の目標に向かう気持ちを強めてくれるものは無い。
今後、口では「悔しい」と言ったとしても、その後の行動でそれが本気かどうかわかる。
このブログでよく書くことだが、勝つ事が目的ではない。
目的は勝つために自分が何をすべきかを見つけることだ。
さて、みんなは見つけることが出来るだろうか。
計らずも負ってしまった膝の怪我により、今回は帯同審判の役目を放免となり、純粋に試合を見守る立場からの観戦となった。
いつも思うことだが、新人戦が始まる前あたりまでの新チームにおいて、「まとまり」という点で不安視する事が多く、今回もその懸念があった。
これが無かったのは、亮弥世代と去年の太地世代くらいのものだったかも。
ともかく一度試合が始まったら、こちらの都合を考えて試合をしてくれるチームなど無い。
相手だって勝ちを目指しているわけだから、こちらがそれに対して受身になっていたのでは試合にすらならない。
予選二日目は個人的な都合で帯同出来なかったため、初日のレビューだけになりますが。
<第1試合>
二戸 4 - 1 一関南
<第2試合>
二戸 2 - 3 高田
初戦の一関南戦。
開始早々から前半終了までの緊張っぷりというか、慌てっぷりたるや。
ますボールが足に付かない。
初の公式試合なんてそんなものかもしれないが、いつものいい意味での緊張感の無さはどこへ行ったのやら。
そんな中でも前半のうちに1点取ったのは幸いだったと言える。
ほんのわずかでも気持ちに余裕を持つ要素が出来たからだ。
サイドからの展開も思うように行かず、中盤の真ん中では判断の遅さから潰される場面が続き、攻撃に関してはあと一枚欲しいところ。
ハーフタイムにて小野寺代表に、「蓮がどこかでリスクを犯して、勝負所を見つけられるかがポイントでしょうね。」と話していたのだが、全くその通りの展開となり、蓮のドリブル突破から立て続けに3点追加することが出来た。
センターバックでありながら、攻撃の要にもなる必要がある蓮にとっては大変な重労働だったとは思うが、そこはキャプテンとしての責務だと自覚してもらえれば言う事無しだ。
実際それで結果も出している。
ただ、最後の1失点は面白くない。
ベンチメンバーも多く交代させたとは言っても、守備のメンバーは変わっていないはずなので、勝ちが見えたことによる油断だったと言わざるを得ない。
ちょっと厳しい意見かもしれないが、こういうところは今後の課題としてしっかり取り組む必要がある。
高田戦においては、個人的には実にいい試合運びをしたと思っている。
パスワークに関しては、太地世代のチームよりも良く出来ていると思えるシーンが多かった。
個の能力に絶対的な自信がある選手がいないという事もあるのかもしれないが、実に面白い連携が見られた。
崩されたわけではない失点が重く圧し掛かった。
ほんのわずかな対応の遅れ、寄せの甘さが、相手に付け入る隙を与えてしまったという感じだった。
こちらの失点は全て自分達のミス、得点は積極的な仕掛けからの「奪い取った」点だったという評価だ。
観る事が出来た試合だけの話になるが、ポイントとなることは「タイミング」ではないだろうか。
先にも述べたが、守備においては相手に寄せるタイミングであったり、攻撃においてはシュートの決断をするタイミングだったりと、様々な場面がある。
相手にボールが納まる前に寄せる、相手にボールが納まったと思ったら寄せるタイミングをうかがうというような判断。
相手に寄せられる前にゴール前にクロスボールを入れる、トラップしている間に寄せられると思ったら思い切ってダイレクトプレーに打って出るというような判断。
これらのプレーの判断をするタイミングというものが大事になってくると感じた。
あとは全体的にポジショニングの大切さを理解出来ればと思う。
自分が今どこにいるのかを把握することは、次にどこを狙うのかという先のプレーのイメージを作り出すことに繋がってくる。
身体能力は必要だが、それだけで勝ちあがれるほど甘いスポーツではない。
もっともっと「考えて」プレーする癖をつけていって欲しい。
二日目は花巻銀河に0-2、GROWSには二桁失点で負けたとかで、結局は1勝3敗で大会を終えたようだが、高田戦の惜敗はもちろんのこと、一関南に勝ったというこの1勝が、余計に悔しさを感じる要素になってくれればと思う。
悔しい思いをしなかった者は、おそらくここで立ち止まることになるだろう。
悔しい思いをする事ほど、次の目標に向かう気持ちを強めてくれるものは無い。
今後、口では「悔しい」と言ったとしても、その後の行動でそれが本気かどうかわかる。
このブログでよく書くことだが、勝つ事が目的ではない。
目的は勝つために自分が何をすべきかを見つけることだ。
さて、みんなは見つけることが出来るだろうか。
【音楽】東京は夜の七時/ピチカート・ファイヴ(1993)
90年代における、オレの音楽カルチャーの模索の時期に、スポット的に気になる音楽が登場しては消えていった。
その中で唯一オレの中で生き残っているのは、今でもライブに出かけるほどのファンとなったオリジナル・ラブだけだ。
そのオリジナル・ラブと同時期に登場し、プロデューサー小西康陽によって世に送り出されたピチカート・ファイヴも忘れてはならない。
「渋谷系」といわれる音楽ムーブメントを引き起こし、この時代を象徴する潮流を作った。
「東京は夜の七時~the night is still young〜/ピチカート・ファイヴ(1993)」
残念ながらピチカート・ファイヴには深くハマらなかった。
その理由は、リズムアレンジがちょっとやかましすぎて、野宮真貴のヴォーカルの良さが埋もれてしまっている感じがしたからである。
今でも思うが、中々お目にかかれない美声の持ち主だと思う。
曲が良いだけに、ちょっと懲りすぎたアレンジが仇になっていると思うと残念でならない。
この不満は、この後に発売されるピチカート・ファイヴのシングル「スウィート・ソウル・レビュー」で解消されている。
それにしても、まだこの頃は週末の夜にウキウキする時代の名残があったなぁ。
「The Night Is Still Young/Pizzicato Five」
その中で唯一オレの中で生き残っているのは、今でもライブに出かけるほどのファンとなったオリジナル・ラブだけだ。
そのオリジナル・ラブと同時期に登場し、プロデューサー小西康陽によって世に送り出されたピチカート・ファイヴも忘れてはならない。
「渋谷系」といわれる音楽ムーブメントを引き起こし、この時代を象徴する潮流を作った。
「東京は夜の七時~the night is still young〜/ピチカート・ファイヴ(1993)」
残念ながらピチカート・ファイヴには深くハマらなかった。
その理由は、リズムアレンジがちょっとやかましすぎて、野宮真貴のヴォーカルの良さが埋もれてしまっている感じがしたからである。
今でも思うが、中々お目にかかれない美声の持ち主だと思う。
曲が良いだけに、ちょっと懲りすぎたアレンジが仇になっていると思うと残念でならない。
この不満は、この後に発売されるピチカート・ファイヴのシングル「スウィート・ソウル・レビュー」で解消されている。
それにしても、まだこの頃は週末の夜にウキウキする時代の名残があったなぁ。
「The Night Is Still Young/Pizzicato Five」
【音楽】VIRTUAL INSANITY/ジャミロクワイ(1996)
ジャミロクワイの楽曲の中でも、最も知られているのがこの歌。
当時洋楽から離れつつあったオレに、ちょっとだけ待ったをかけたのがこれだった。
「VIRTUAL INSANITY/ジャミロクワイ(1996)」
90年代の洋楽も邦楽も、これとオリジナル・ラブ以外は聞くものを持つことが出来なかったオレだが、これは今聴いてもイイ。
もしかしたら、オレが最後に購入した洋楽の新作になるかも知れない。
もう20年以上前だってのに・・・ねぇ。
音楽って、この頃を最後に進化を止めてしまったのかも知れない。
それにしてもこのPVは印象的だったなぁ。
「VIRTUAL INSANITY/Jamiroquai」
当時洋楽から離れつつあったオレに、ちょっとだけ待ったをかけたのがこれだった。
「VIRTUAL INSANITY/ジャミロクワイ(1996)」
90年代の洋楽も邦楽も、これとオリジナル・ラブ以外は聞くものを持つことが出来なかったオレだが、これは今聴いてもイイ。
もしかしたら、オレが最後に購入した洋楽の新作になるかも知れない。
もう20年以上前だってのに・・・ねぇ。
音楽って、この頃を最後に進化を止めてしまったのかも知れない。
それにしてもこのPVは印象的だったなぁ。
「VIRTUAL INSANITY/Jamiroquai」