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県トレセン 初参加

先週初めて県トレセンに参加した。
県北トレセンチームとしての交流試合参加後の事だ。

指導者の資格を取ったばかりで、色々と勉強できるチャンスが巡ってきているのはありがたい事である。
ナショナルトレセンの講師がやってきて、実際に指導するところを間近で見られるチャンス。
見て思ったことは、「レベルが高い」である。
といっても、やっている事・言っている事は実にシンプル。
この日のテーマは「認識」。
よく子供達に「周りを見ろ」と言う事があるが、このテーマはそこからさらに上の事を目指している。
「見る」事は当然の事として、見た状態をどのように「認識」するかで次のプレーが決まるといった、高度な事をやっている。
実際のワークとしての練習メニューはたった3種類のみ。
しかしその中に込められているメッセージは、普段FCで練習する時に伝えたいと思っている事の2倍も3倍も濃い内容だった。

もちろんそれらをFCにそのまま取り入れるつもりはない。
子供達の個人差というものもある。
大人が思う事を子供達に押し付ける訳にはいかない。
極論すれば「勝たせたい」と思うことさえも大人のエゴイズムである。
集団での行動となると、個人差というものは嫌でも目に入ってくる。
そうなるとこのエゴがイタズラして、「あの子は出来るのにどうしてお前は出来ないんだ?」という、比較対象を持ち出しての理不尽な指導にもなりかねない。
能力差、体格差などの他人との比較は、その子に対する人格否定にも等しい。
その差を縮める手助けをしてやりたいとは思っているが、オレ的には誰かと比較して指導することだけは決してするまいと思っている。

技術的な事としてチーム練習に取り入れたい内容を勉強してきたにもかかわらず、講師の言った一言が頭から離れない。
「子供は大人のミニチュアではない。」
「子供は小さな大人ではない」ということだ。
大人の意識の植え付けではなく、いかにして子供達の個性・特性を活かし、理解しつつ、チームの戦力として育て上げられるか。
それは、子供達と指導者との信頼関係が築き上げるものだろう。

オレにはまだ遠い世界の話だ。
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【音楽】サマーサンバ/アストラッド・ジウベルト(1967)

もうひとつアストラッドから。
前回の「トリステーザ」と同様のポップなボサノヴァ・ナンバー。

「サマーサンバ/アストラッド・ジウベルト」

気だるい夏の午後というイメージにぴったりだ。
ところが、冬に聞いてもピッタリだから不思議なのである。



日本では「オシャレな音楽」、「大人の音楽」みたいに言われているが、一度もそんなことを意識して聴いたことはない。
ただ好きだから聴いている。
それだけだ。

ひょっとしたら、オレの中にラテンの血が流れているのかも。

「Summer Samba(So,Nice)/Astrud Gilberto」

【音楽】トリステーザ/アストラッド・ジウベルト(1967)

一般的なボサノヴァのシンガーとして有名なアストラッド・ジウベルト。
「ボサノヴァの女王」とまで言われている。
そのアストラッドの歌を一曲。

「トリステーザ/アストラッド・ジウベルト」



イントロは元来のボサノヴァの基本フレーズだが、アレンジとしてはかなりポップな感じに仕上がっている。
ボサノヴァの入門編と言っていい名曲。

「Tristeza/Astrud Gilberto」

【音楽】イパネマの娘/ジョアン&アストラッド・ジウベルト(1962)

ボサノヴァの歴史は意外と浅く、長く見積もっても50年程度のものである。
ボサノヴァの始祖の一人として有名なのが「Joao Gilberto(ジョアン・ジウベルト)」。
そして1963年当時、妻であった「Astrud Gilberto(アストラッド・ジウベルト)」と共に歌い、世界的なボサノヴァのスタンダードナンバーとなったのがこの歌。

「イパネマの娘/ジョアン&アストラッド・ジウベルト」

世界的なスタンダード・ナンバーであるにもかかわらず、ヒットのきっかけはボサノヴァの歴史に黒い影を落とすものだったそうで、本来のボサノヴァと「イパネマの娘」によってヒットしたボサノヴァとは全く別物であるとの見解がある。
ボサノヴァは現在、本国ブラジルでは若者はほとんど聴かず、日本で言うところの演歌や民謡のような存在であるらしい。
世界的なヒットの影には、醜い権利争いとマーケティングの狡猾さがあり、歌っているアストラッドは本国では知名度が低い。
この辺は興味があればネットに沿革が載っているのでご覧になって下さい。



余談だが、この「イパネマの娘」は、男女問わず、グループやオーケストラも含めて、もはや把握しきれない程のカバーがなされている。
それらを全て網羅したリストの作成は不可能とまで言われるほどの名曲中の名曲である。

「Girl From Ipanema(Garota De Ipanema)/Joao & Astrud Gilberto」

【音楽】マイ・ピュア・レディ/尾崎亜美(1977)

ボサノヴァ歌謡をもう一つ。

「マイ・ピュア・レディ/尾崎亜美」

ポスト・ユーミンの最右翼と言われ、3枚目のシングルとなった今作が、化粧品のCMに使われ大ヒット。
シンガーソングライターとしての地位を確立。
楽曲提供としては、南沙織「春の予感 -I've been mellow-」、高橋真梨子「あなたの空を翔びたい」、杏里「オリビアを聴きながら」、松田聖子「天使のウィンク」、「ボーイの季節」等々のヒット曲も存在する。
この透明な空気感のようなものが、資生堂のCMソングとして起用されて、イメージと共に一躍有名となった。



今回紹介した4曲の中で、曲の構成的に好きなのは「恋愛遊戯」だ。
では、ボサノヴァとはどういうものなのか。
次回からちょっとだけ紹介してみよう。

【音楽】あの日にかえりたい/荒井由実(1975)

前回の「どうぞこのまま」の時に例として出したので、今回はこれを貼ってみた。

「あの日にかえりたい/荒井由実」

実はユーミンはあまり聞かなかった。
特に松任谷由実になってからは好んで聞くことはなかった。
今聴き返してみると、荒井由実時代は名曲が多い。
当時はフォーク全盛時代であったが、同時代において荒井由実の持つ世界は異質だった。
貧乏臭さが全く無い。
結婚後はその世界観が狭くなった気がしてならない。
結婚そのものは成功かも知れないが、ミュージシャンとしてはどうだったのだろうか???

余談だが、バックで演奏しているのは、Drums:林立夫、Bass:細野晴臣、Keyboard:松任谷正隆、Guitar:鈴木茂という、以前紹介した「ソバカスのある少女」のティン・パン・アレーの面々である。

【音楽】どうぞこのまま/丸山圭子(1976)

ボサノヴァ歌謡をもう一つ。
こちらは前回の「恋愛遊戯」とは打って変わって、アダルトな雰囲気のダークなボサノヴァである。

「どうぞこのまま/丸山圭子」

これは丸山圭子の中でも最大のロングヒットとなった。
今では音楽大学の教授として教鞭を振るっているそうである。

今では知る人ぞ知る歌となってしまった。
系統で言えば、荒井由実の「あの日に帰りたい」に近いかな。

【音楽】恋愛遊戯/太田裕美(1977)

前回、太田裕美を書いてみたが、意外なことに以前はアイドル扱いされていた。
アイドル応援の定番である、歌に合わせたファンの「掛け声」というものが存在していたのである。
「アイドル」と言うよりは「シンガー」としてのイメージしかなかったオレにとって、昔の「レッツゴー・ヤング」とかの映像を見て驚きを隠せない。
そんな太田裕美のヒット曲といえば「木綿のハンカチーフ」だが、ほかにも「雨だれ」、「九月の雨」、「赤いハイヒール」などがある。
その中でも、オレ的に「木綿のハンカチーフ」と双璧を成すのがこの歌。

「恋愛遊戯/太田裕美」

元々ボサノヴァが好きなオレ。
歌謡曲にボサノヴァが取り入れられた初期の名曲である。
先に記した代表曲としてあげた歌は、全て作曲・筒美京平である。

「ドラゴン怒りの鉄拳」を映画批評してみた

ついに30年ぶりに「ドラゴン怒りの鉄拳」を観て来た。
何の映画でもそうだが、映画館に行って大スクリーン・大音響で観る事の醍醐味は、足を運んでお金を払って観た人だけの特権だ。
ブルース・リーの映画を、「映画的評論」として語ったことは今までに一度もなかった。
ファンであるオレは、「ブルース・リー・フィルター」というものを持っており、内容がどうであろうと、ブルース・リーさえ観られればそれで良かった。
しかしせっかく30年振りに観る事が出来たことを機会にして、「映画評論」的に「ドラゴン怒りの鉄拳」を評してみよう。

一言で言えば、ロー・ウェイという監督の「力量」がモロに出ている。
もちろんネガティブな意味で。
タイトルの示す通り、この映画にはいくつもの怒りに満ちた表情というものが出てくる。
その度合いは半端ではなく、いわゆる「オーバーアクト」で、ファン意外にはこっけいに見える。
怒りのあまり、拳をつくって体をわなわなと震わせる様や、いちいち登場する怒りの表情は、ブルース・リーを笑いのネタにする芸人や漫画家などの格好の餌になっている。
特にこの作品は顕著で、当然これは演出の問題だ。
日本人武道家の袴が前後逆になっていたり、お座敷芸で芸者がストリップをするシーンは突っ込むところだ。
日本のお座敷芸ではこんな踊りはしないだろう。
余談だが、1974年の日本初公開版ではこのシーンはカットされている。
時系列の構成も変で、話の切り替わり方が唐突である。
最大の欠点として、いざこざを起こした主人公が、日本人からの迫害を逃れるために上海を出る決意をした夜、図らずも師匠の死の原因を知ってしまうシーン。
物音を不審に思った主人公が、その音の先を追っていったところ、道場の使用人が毒殺したという事実を知ってしまうのだが、きっかけとなる「物音」がBGMにかぶってしまい、物語の変化を観客に伝え切れていない。
BGMも仰々しく大袈裟なので、オーバーアクトであることも含めて、舞台劇かTVドラマのような「説明的」な部分が多い。
前作「ドラゴン危機一発」から打って変わってセット撮影主体となった今作だが、途中ロケシーンが1シーン・3カット登場する。
しかし全く意味がなくロケにした意味がわからない。
映像のトーンが変わってしまい、非常に不自然である。
演出面においては、製作時からブルース・リーとは意見が合わず、かなり険悪だったそうで、死の一ヶ月前にはスタジオまで殴りに行ったというエピソードが存在する。
さらにジャッキー・チェンと組んでいた頃には、ジャッキーを他の制作会社に引き抜かれないように契約書を改ざんし、結果的にジャッキーは一時アメリカに逃亡する。
これをヤクザ者を使って追い込みをかけたことにより事態は悪化。
結局、香港黒社会との太い繋がりを持つ俳優ジミー・ウォングの口添えにより、全てを手打ちにしてもらったという。
こういった騒ぎが元で衰退の一途を辿っていった。

小ネタとしては、日本武術道場の館長がブルース・リーの飛び蹴りを受けて、障子を突き破るシーンのスタントを勤めたのは、スタントマン時代のジャッキー・チェンであることが知られている。
そして、罪を償うために自ら警官隊の銃口に飛び込んでいくラストシーンは感動モノだ。
このシーン、元ネタとしては「明日に向かって撃て」のラストシーンなんだろうなぁ。
色々と書いてきたが、これらは「ブルース・リー観られる」という一点のみで全て帳消しになっている。
なぜなら、ブルース・リーの映画全てに言える事だが、ファンとしてはブルース・リーが出ている事だけで映画が成り立っているからである。
それにしても、熱烈なファンとしてブルース・リー映画を作品として客観的に批評するのは大変だわ。

iリーグ 第1節

今期初めて新チームの公式戦を観ることが出来た。
新チームに対する不安はいつの世代でもあった。
しかし今回は、コーチ講習会に行って来た後だったので、子供達に対する大人の過度な期待というものは大敵であることを認識出来ていた。
子供達が試合でやる事を、練習で修正。
それをさらに次の試合で生かせるようにする。
トライ&エラーの繰り返しということだ。

試合そのものはお陰さまで大勝だった。
が、内容はほめられたものではない。
点こそ取れるものの、個の力のみのものばかり。
今の内はそれも通用するものの、上のレベルでは全く通用しなくなる。
少年団世代は個の力を伸ばす時代だとはいえ、良い意味で味方を使うことも大事なことだ。
フットボールはチーム競技だからね。

もうひとつ気になることは、楽しそうにプレーしている様には見えないということだ。
ゴールしてもあまり喜ばないし、味方のミスにはすぐに噛み付くし、例年の慢性的な問題だが、試合に出たいとアピールする者のほとんどが準備出来ていない。
意欲はあるが、実際試合に出ると何も出来ないことが多い。
何も出来ないというか、何をしたらいいのか分っていないというか・・・。
もちろんこのあたりは指導者の問題でもあるので、iリーグを有効に活用し、トライ&エラーを繰り返していくしかない。

昨年度に引き続いて書かせてもらうが、あくまでも「勝つ事を目的にしてはいけない」。
「目標」にするのはかまわないが、「目的」は違う所にあると知って欲しい。
試合毎の結果で全てを決めないように。
勝った試合には修正点が無いとは誰にも言えないんだからね。

さて、これから修正すべき所を、普段の練習でビシビシと締め上げていかないと。
不安と楽しみが入り混じる、シーズン初めのいつもの感覚がやってきたぞ。
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