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カシオペア・フットサル大会 OVER30の部

昨日、延期となっていたカシオペア・フットサル大会が開催された。
今年から「OVER30」の部が出来、当然のことながら、オレは「OVER30」に出場した。
もちろん気分はこれまで通りの「一般」としてである。
けが人や体調不良等で登録メンバーが次々と欠けていき、交代メンバーが二人しかいない状況・・・。
オレという「お荷物」をメインに出さなければならないという、他のメンバーにとっての「苦行」が始まった。

結果からというと、書くまでも無いほどにボロボロだった。
自分の下手さ加減を思い知る事となった。
初戦で得点こそ決めたものの、内容的には「全くダメ」の一言。
みんなには点を取った喜びを見せてはいたものの、プレーも審判としても課題だらけの、というより、それ以前の問題だった。
役に立たないだろうとは思っていたが、まさかこれほどまでとは・・・。
予選の2試合目の途中で、古傷を持つ右膝を壊してしまったこともあったが、それは別問題。
さすがのオレも今回ばかりはフットサルを辞めたくなった。
心底自分に自信が無くなった。
今回の大会全般を通じて、自分の不甲斐無さにすっかり精神が疲れきってしまい、失礼にも試合後の打ち上げを断ってしまった。
正直言って「ひとり」になりたかった。
自分が出来ないのが悔しいこともあるが、周りに迷惑をかけてしまうことが耐えられない。
みんなはフォローもしてくれるし、励ましてもくれるのだが、やはりそのチームのレベルに達していない者はプレーすべきじゃない。
たとえエンジョイクラスであったとしても、大会に出て試合をする以上は、そこに勝負事が待っている。
その勝負事に耐えられるようでなければ出場資格は無い。
今まで、支えられてきたという事に安心し過ぎてしまい、どこかで歳を言い訳にしていなかっただろうか?
ケガを言い訳にしていなかっただろうか?
未経験者であることを言い訳にしていなかっただろうか?
たとえ楽しくやるにしても、ある一定のことが出来なければ、楽しむも何も無い。
その一定に達していないのが現実だ。
だが逆に考えれば、それだけ自分がやれると勘違いしていたという事にもなる。
それは自惚れなのだろう。
フットサルを始めてから、挫けるという事が少なくなったオレだが、今回ばかりは精神的に参ってしまった。
「自分を知る」という事は、何と過酷で残酷なものなのだろうか。

点が取れた以外には何も収穫が無かったと言っていい今回、この「1得点」だけを胸にこれからも練習頑張ろう。
どこまで行ったって「ヘタクソはヘタクソ」なんだから練習しなきゃ。
ちょっとでもいいから「上達」を夢見ないと、どんどん衰えていくばかりだからな。
浅里に言われた「現状維持は退化なり」を肝に銘じておこう。
せっかく人生史上最も打ち込んだスポーツをそう簡単には辞めたくない。
フットサルを辞めてしまったら、たぶんスポ少も辞めてしまうだろう。
やっぱりそれはいやだ。
こんなオレでも気にかけてくれる仲間がいる。
一緒にボールを蹴ってくれる仲間がいる。
まずは膝を養生し、絶望すら感じたこの大会を通じて、「もっと練習しなきゃ。」、「もっと自分の役割をしっかりやらなきゃ。」と思うオレだった。

唯一の光明。
それは、去年取れなかった得点。
今年は何とか取れて、非公式最年長ゴール記録を「44歳」に伸ばしたぞ。
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【音楽】ズルい女/シャ乱Q(1995)

先月、10数年ぶりに同級生の女友達と出会った。
立ち話だったが、昔話に花が咲いた。
聞くと、茨城に嫁いでいたのだが、不幸にも旦那と別れることになり、一戸に帰って来ていたそうだ。
そこから身の上話が始まったのだが、現在付き合っている彼氏がいるという。
しかしその前に、はっきりと別れたという訳ではない男もいるとか。
生活基盤の立て直しで忙しかった事もあり、あまり会う時間も取れないまま、前彼とは自然消滅的になってしまったそうだ。
そして後に今彼と付き合う事になったのだが、前彼との幕引きが出来ていないことを気にしている様子だった。
「自分が今彼と同じ立場だったらどうする?」と聞かれ、「今付き合っているのが自分なんだから、そんなに気にすることじゃないと思うけど、もし今でも前彼と続いてるんだとしたら怒るだろうし、嫉妬するだろうね。オレは嫉妬深いほうだから。」と軽く言ってみた。
ところが事態は結構深刻だったようで、「ちゃんと別れなかったのは、どこかで逃げ道作ってたんじゃないかって思うのよ。私ってズルい女だよね・・・。」と塞ぎ込んでしまった。
その様子に「自分のこれからを決める大きな選択なんだから、単純にズルいとは言えないんじゃないか?」と答えるのが精一杯だった。
「自分がやろうとしている事に対して、自分がどうあるべきか。」というテーマは、スポ少での指導でよく子供達に問いかけていた事だ。
今スポ少で活動していて、子供達にはそういう思想で接しているということを話した。
図らずも、スポ少活動がこの話に応用出来たの幸運だった。
結局決めるのは自分、ということで決着した。

いたたまれず、「恋愛事に無縁だったオレの高校時代を知ってるはずなのに、何でオレにそんな質問してくるかなぁ。」と切り返したところ、「それもそうだね。」の一言。
おいおい。
自分から言っておいてなんだが、ちょっとくらいフォロー入れてくれよ。

その後どうなったかは、連絡をもらっていないので判らない。
背中を押すことくらいは出来たと思うので、せめて悪い方向に進んでいないことを祈るばかりだ。


そんな話をした後で、シャ乱Qの「ズルい女」しか思い浮かばなかったのは、オレの引き出しの無さを痛感する出来事となった。



好んで聴いていた訳ではなかったこの歌。
高校時代の吹奏楽部の親友と作曲をして遊んでいた頃、2人ともこの歌のイントロのブラスアレンジを気に入ってしまい、「ちょっと『やられた』って感じだよなぁ。」と話していた事を思い出した。

ヨイトマケの唄/丸山明宏(1965)

スポ少ネタという訳じゃないが、2013年度二戸FCメンバー、および、保護者の方々へ向けたお話を一つ。
このブログを開始してから、記念すべき「300」件目の記事なので、もう一度スポ少メンバーと保護者に向けて書いてみた。

子供達には、常に「感謝すること」を説いてきた。
中でも親に対する感謝を忘れないで欲しい、と。
言葉にしなくても、態度に表さなくとも、気持ちを持つだけでいい。
何しろ、みんなそれぞれの一番のファンは親なんだから。

そんな、感謝の気持ちを忘れて欲しくない一心で、子供達に向けて歌を貼り付けてみた。

「ヨイトマケの唄/丸山明宏」

シャンソン歌手として活動していた丸山明宏(現・美輪明宏。以降美輪と表記)の、土俗的な日本歌謡である。
「ヨイトマケ」とは、かつて建設機械が普及していなかった時代、整地する際に、重量のある槌を数人掛かりで滑車で上下させる時の掛け声であり、その綱を引く人をも指す。
主に日雇い労働者の仕事だった。

作詞作曲するきっかけは、とある炭鉱町でコンサートをすることになったのだが、きらびやかな衣装を着て炭鉱夫の前で歌うことに違和感を感じていた。
しかし炭鉱労働者たちが安い賃金をつぎ込んでチケットを買い求める姿を見て、「これだけ私の歌が聴きたいと集まってくれているのに、私にはこの人たちに歌える歌がない」と感じたことだそうである。
美輪が幼少時に一緒に育った友人の亡き母をモデルとし、主人公の過去には、母親の職業(日雇い労働者)がきっかけでいじめを受けた悔しさなどが描かれている。

この歌のヒットは、同性愛者であることを公にしてから低迷していた美輪に、再び脚光が集まるきっかけとなった。
しかし発表後間もなくして歌詞の中に差別用語として扱われる「土方(どかた)」、「ヨイトマケ」が含まれている点などから、日本民間放送連盟により要注意歌謡曲(放送禁止歌)に指定された。
それ以降民放では放送されなくなるが、2012年12月31日には美輪はこの歌で『第63回NHK紅白歌合戦』に初出場した。
美輪本人によると「この歌がヒットした50年前にも紅白出演のオファーがあったが、歌唱時間の問題で辞退した」と回想している。
当時の紅白では歌手1人につき3分以内という時間制限が設けられており、当時の歌としては6分という異例の長さにより、大幅に歌詞を省略して歌うことを求められた。
しかし美輪は「歌詞の省略はできない」と頑なに拒否し、出場辞退することになった。
自身のリサイタルではこの歌を歌う際に、普段の金髪で派手な衣装を封印し、モノトーンの落ち着いた風貌で歌唱することをポリシーとしている。
舞台演出も、ピンスポットライトひとつにスタンドマイク一本という形を崩すことはないと言われている。



この歌を今の子供達に聴かせてもピンとこないだろう。
それでも、この歌は親への感謝の気持ちを忘れないためにも聴いて欲しい。
出来ることなら、部屋を暗くしてヘッドホンで聞き入ってもらいたい。
美輪の歌唱力もあいまって、入り込んで聞くと涙が出てしまう。
分かっていながら親孝行出来ずにいる。
オレに出来る親孝行は、もはや「親よりも先に死なない」という事くらいしか無いかも。

母と子の愛情を描いた歌であり、今の繁栄を支えた労働者を称える歌である。
そして何よりも「人間賛歌」である。

卒業/斉藤由貴(1985)

スポ少ネタに明け暮れている間に、あっというまに卒業シーズンも過ぎていった。
巷にはまたもや桜をテーマにした歌があふれはじめた。
いつからこんな歌が季節物として出始めたのかはわからないが、海援隊の「贈る言葉」、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」、荒井由実の「卒業写真」あたりは初期の鉄板なんだろうね。
オレ世代の卒業ソングといえば、斉藤由貴の「卒業」になる。
作曲家・筒美京平の名曲だ。

「卒業/斉藤由貴」



制服の第二ボタンをもらうという風潮は、遠い昔となった昭和の名残でしかないのだろうか。
ちなみにオレの制服のボタンは、卒業式が終わって家に帰るまで、一つも欠ける事の無い「フル・コンプリート」状態だったのは言うまでもない。
改めて書くまでも無いか。

「Graduation/YUKI SAITOH」

帰ってきた 2013年度 二戸FC 総括の巻

2013年度の活動は全て終了した。
振り返るのもこれで終了にしよう。

プレースタイルということで言えば、文字通り「取られたら取り返す」が信条のチームとなっていた。
交流試合ではあったかも知れないが、3大コンペティションである、全少、セーラー、バーモントにおいては、無得点という試合は無かったのではないだろうか。
記憶が正しければ・・・って、資料調べろよな。
「得点能力の高いチーム」と単純には言い切れないが、とにかくゴールシーンの多いチームだった。
全少のトーナメントでも、6点取られながら3点返している。
つまり、気持ちの切れないチームだったということだ。

だが厳しく言えば、行き当たりばったりの攻撃が多かったのは否めない。
つまり、ゲーム中にプレーイメージが出来ていないのである。
今ボールが来たらどうするか、あそこでボールをもらうためにどうやって自分のマーカーを外すか、という想像力に欠けている。
イメージが出来ないから予測が出来ない。
予測が出来ないから動き出しも遅くなる。
つまり、体力的にキツイ展開になってしまう。
守備に関しても、もっと楽に対処出来る能力があったはずなのに、チームカラーなのか、がむしゃらに汗をかくプレーが多かった。
傍から見れば面白いと思える姿なのだが、スタッフ側から見れば内心ヒヤヒヤものだ。

セーラーの終盤に差し掛かる頃には、主導権を握ることの意味を理解し始めたような気がした。
相手ボールにならなければピンチは来ないという「失点0思想」をこのプログで書いたことがあったが、バーモントにおいてはこの「主導権」の意味を実践に移していたと思う。
がむしゃらにプレーすることがチームカラーになっていた節のある今年のチームは、一年のうちに2回も「負けて泣く」シーンを見せてくれた。

以前のブログで書いた「印象に残る試合」で選んだ試合でも見られた気迫溢れるプレーは、それほど深い印象を与えてくれた。
残念ながら、セーラーの最終戦、バーモントの第一代表決定戦は、別試合の審判担当だったので見ていない。
特にバーモントの第一代表決定戦は、崇楽ママの話を聞くと「みんなの姿にシビレた」というほどだ。
これは後で翔吾パパから頂いた動画で確認してみよう。

とにかく今年は「攻めのスタイル」の色合いが強いチームだった。
それを支える選手に恵まれたということでもある。
まさに適材適所といった感じだった。
下の年代、選手達、それを支える父母会のチームワークに至るまで、まさに「チーム」という言葉がぴったりの今年だった。
そして、成長の度合いが大きいと思える要因として、必ず話題に上るのが昨年の新人戦のグルージャ戦である。
惨敗というと聞こえは悪いかもしれないが、このつらい経験がもたらした功績は計り知れない。
「負けて得るもの」を地で行く貴重な経験だったのだろうと思う。
それを乗り越え、バーモントで苦しめるという、グルージャに始まりグルージャに終わったと言えるのかも知れない。

子供達の成長、下の年代の応援、父母会の団結と、スポ少活動の醍醐味が全て詰まった年だった。
的確な表現ではないかも知れないが、オレ的なこれまでの6年間の集大成だったと思える。
この点はアニキも同様のコメントをしている。
6送会の挨拶で、アニキが涙を我慢して声を震わせていたのも理解出来る。
オレは今年は我慢出来ず、数回に渡って涙を流した。
本当に思い入れの深い一年だった。

さて、それでも次を見るべき時は確実にやってくる。
時間は待ってくれないし、対戦相手はこちらの都合に合わせてはくれない。
今年の活動を糧にはするが、比較は絶対にしない。
新しいチームに対しては、新しい気持ちで望もう。

これをもって2013年度の二戸FC振り返り週間の幕を閉じよう。
子供達と保護者に、心からのお礼を述べて終わりにしよう。
巣立って行った子供達、そしてお世話になった保護者の皆さん。
いくらお礼を言っても言い足りないほどの楽しい時間をくれたことに感謝します。

お付き合いそのものは変わらないので、これからもごひいきに。
お別れする訳ではないので、この歌を添えておきましょう。

「さよならは言わないで/ジャクソン5」



「Never Can Say Good-Bye/JACKSON 5」

続・2013年度 二戸FC 総括の巻

今年度のテーマとして掲げていた「父母会との交流」は、オレ的には大部分で成し遂げられたという印象だ。
「成し遂げられた」というより、父母会の方々のお陰で「成り立った」というべきか。
ある意味、子供達との交流がうまくいったと思えるのは、父母会のお陰と言って良い。
子供達それぞれと思い出があったように、父母会の方々ともそれぞれ思い出に残ることがありました。
瑠心パパ&ママ、眞大ママ、悠ママ、弥龍ママ、優ママ、それぞれにお世話になった思い出で溢れています。
皆さん、ありがとうございました。

特にお世話になったのは、翔吾パパ&ママ。
父母会主催のバーベキューの後、自宅に招待して頂き、父母会会合の全貌を知るきっかけを作ってくれた。
ママには色々と気を使ってもらったりしたが、翔吾や響希の指導となると「思いっきりやっちゃって下さい」的に、意外と軽いノリで全てを任せてもらったりして、リラックスした交流が出来た。
パパはオレと同様に撮影担当をして頂いたお陰で、オレの撮影テーマに無かった「スナップ」を色々と見せてもらった。
構図等で今後の撮影の参考にしたいと思い、6送会で見せてもらったスライドショーに使われた、今年度撮り貯めたライブラリの全てを下さいと、無理難題を言わせて頂いた。
2013年度の全写真のコピー、および、三大コンペティションの動画コピーと、手間掛けさせてすみません。

次に崇楽ママ。
父母会の輪に入れて頂くきっかけをくれた人である。
気さくでカラカラとした性格に何度救われたことか。
人付き合いの苦手なオレの人格改造をしたと言ってもいい程だ。
同じ高校出身で、オレのほうが1学年上だと言うことが判って以降は、学校ネタに限らず、FC活動の事で積極的に話しかけてくれて、スタッフと父母会という垣根を越えたお世話をして頂いた。
それは、現在浸透しているオレのニックネームの名付け親であり、息子である崇楽にツッコミを入れられたほどだった。
父母会の中でも一番話しやすい人でした。

そして亮弥パパ&ママ。
足掛け7年以上に渡るサポートをして頂き、全てにおいて支えて頂いた。
ママには天然っぷりで和ませてもらい、感激屋の性格のお陰で、試合後の労いを人一倍してもらった。
FC活動終盤には、崇楽ママとタッグを組んで、「M」気質のオレに責め苦を味わわせる楽しい一面も見せてもらった。
パパは威厳ある佇まいながら、親しみやすい「訛り」で和ませてもらった。
とある飲み会で手持ちが無かった時にすぐさま出してくれて、後で返そうとした時にも「宵越しの銭は持たない主義だ。いつも世話になってるからここは世話させてくれ。」と、お金を受け取らない気風の良さに惚れたものだ。
スタッフに対する信頼も強固なものがあり、秋田カップの時の一言は何よりも嬉しい一言だった。
「親は子供の送り迎えだけしていればいい。後は全部コーチに任せて、試合の時に全力で応援していればいいんだ。」
これはオレの中でも「名言中の名言」として心に刻まれた。

思い起こせば、秋田カップの道中、黒石遠征でのひととき、もちろん全少やセーラー、バーモントでの交流、各大会後の交流会、夏のバーベキュー会など、事ある毎に声をかけて頂き、その先々で大変なおもてなしを受けた。
それも社交辞令的ではなく、結構面白がって接してくれていたのではないかという気もしている。
その様子は、「自分は好かれる人間ではない」と思い込みすぎていただけなのかも知れないと思うほどで、ちょっと安心した。
そしてそれは全父母会メンバーのオレに対する応対を考えれば、あながち間違いではないのかも知れない。
そんな父母会の方々に愛された結果、子供達との交流も良いものになったんだと思い始めている。

子供に向ける愛情同様に、スタッフであるオレに対しても愛情を注いで下さった事に感謝しています。
色々と不満もあったかと思います。
それでも手厚いサポートをして頂き、築き上げた保護者との良い関係性が、子供達との良い関係性に繋がったと思える一年でした。

月並みですが、改めて一言。
今まで本当にありがとうございました。
そして、これからも宜しくお願いします。

2013年度 二戸FC 総括の巻

6送会も終わり、子供達はオレの元を巣立っていった。
彼らが今後どう成長していくのかは、時折聞こえてくるであろう情報で知ることが出来る。
いや、意外と近くでそれを見守っているかも知れない。
そんな子供達との交流を支えた、オレ自身の環境について振り返ってみよう。

この数年間で、自分の周りに色々な世界が開けた。
子供達との交流をきっかけに、他チームの指導者との交流が始まった。
大会に顔を出すうちに、県北地区でも顔を知られるようになり、気さくに話すことが出来る人たちと巡り会った。
慣れた人はオレをいじるようにもなってきた。
パーマをかけたことを2日間に渡ってツッコミ続けた人もいた。
やがて審判資格を取り、盛岡地区の審判仲間と知り合えた。
試合を裁いては終わった後に反省会をしたり、審判委員長の還暦祝いにも呼んで頂いた。
やがてそれは県外にまで波及し、毎年の黒石遠征でも歓待された。
AC黒石さんの父母会の方々にも毎年歓迎して頂き、青森県の審判委員長にもご贔屓頂いている。
今年は都合で初日参加出来なかった黒石遠征だったが、2日目に黒石の指導者の方に挨拶に行ったとき、「昨日の夜、待ってたんですよ~。」と言われ、認識してもらっている安心感に包まれた。
小さくてもコツコツと継続してやってきた事が実を結ぶというのは、こういう事を言うんだと思い知った。
同じスポーツを通じて、同じ志を持つもの同士、魂の血縁関係とも言えるような繋がりを感じることが出来た。
そしてそれは、自らのホームである「二戸FC」の活動を支えてきた父母会の皆さんの、温かい心遣いを深く知る土台を作る大きな要因となった。

父母会の方々へのお礼も含めた総括は次回に持ち越そう。
今週は「振り返り週間」となりそうだ。

2013年度 6年生を送る会

いよいよ6年生との「スポ少」としての最後の交流となった。
今回は個人感情丸出しで書かせて頂くが、今年の6年生はそれだけのものを持っていたという事で、どうか優しい目で見守りながら読んで下さい。
っていつものことか。

午前中はちょっとしたアクシデントも重なって、昼食ギリギリ前に到着した。
いつもの通り、着いて早々6年生への寄せ書きへのコメント。
これは毎年同じ事を書いている。
オレ自身のメインテーマでもある。
色紙を探してみて下さい。

昼食時のレセプションでは、ちょっと涙がこぼれそうだった。
毎年思うことだが、今年は特に思い入れが深い。
初めて受け持ったちびっ子チームの世代だったこともあるし、亮弥に至っては、航平にくっついて遊びに来ていた頃から考えれば、7年にもなる付き合いだった。
崇楽は一番最初にオレに懐いてくれたヤツだし、当然他の子たちもみんな慕ってくれていた。
一緒にボールを蹴ることが出来たことだけでも幸せだったと感じる時間だった。

午後はオレ的に最も楽しみにしていた、6年生との真剣勝負の時間。
いつもは一緒に練習していた子供達とのガチ勝負。
一応現役としてフットサルに興じている以上、負けるわけにはいかない。
もちろん相手である子供達に対する礼儀として、「全力でやるぞ。」と宣言しておいた。
結果は2戦2敗。
どちらのスコアも1-2。
大人げないと言われようが、負けた事は本気で悔しい。
少なくとも最後までみんなの乗り越えるべき「壁」であり続けたかった。
みんなは既にその「壁」を越えてしまっていたようだ。
それでもオレ的には、その2試合で取った2得点が、精一杯の意地だった。
その2得点は我ながら会心の出来だった、と負け惜しみを書いてみたりする。
その後の2次会では、負けた事の悔しさを伝えたところ、亮弥と翔吾には「楽勝でしたよ。」と一蹴され、崇楽に至っては「寝てても勝てましたよ。」と大きく出る始末。
とうとうみんなはオレの扱いというものを心得たようだ。

感傷に浸りそうだった昼のレセプションだったが、夜の会合の頃には「またな。」とい言って別れられるほど満ち足りていた。
今生の別れでもあるまいし、すぐさま顔を合わせる機会が来ると感じている。
今までのように密着することは無くなったかも知れないが、中学に行ってからの言動はすぐにでも耳に入る環境にある。
決して油断するなよ。
ここでの経験を糧にして、次のステップ、新しいテーマに取り組んで欲しい。

どこかで会ったら声掛けてくれよ。
今まで付き合ってくれてありがとう。
またな!

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蹴生杯 in スポカルイン黒石

秋田カップ後の燃え尽き症候群でも休むことのなかったブログを、ついに休んでしまった。
さすがに秋田カップ以降のスケジュールはキツイものがあり、6送会の準備もあって、体力バカのオレでも力尽きてしまった。
かつてのオレのブログ更新頻度を考えてみれば、今年度のスポ少関係のブログ記事の多さは異常とも言えるほどだった。
それほどみんなに思い出をもらったという事だね。

さて、毎年懇意にして頂いているAC黒石1986さんのお誘いで、大会に参加させてもらった。
初日は仕事の為に行けなかったが、2日目は亮弥パパ&ママ、崇楽ママ、賢心パパと共に早朝出発。
初日のドカ雪の苦労を危惧していたが、それは大丈夫だった。
もはやおなじみのスポカルイン黒石。
そこで見た光景は、いつもの様に楽しそうなプレーをしている6年生の姿だった。
合流後のベンチの様子を見て思ったことは、「こいつら、もう自分達で試合を進められるんだなぁ。」である。
ああしろこうしろと言わないのに、誰がスタメンで誰がどこのポジションをやるかという事を、全て自分達で決めていた。
5年生チームはこれからに対する腕試し的な様子があるため、いい意味でも悪い意味でも緊張感が漂っていたが、6年生チームはとにかく楽しそうだった。
この大会に関しては、試合結果がどうのこうのは言わない事にしている。
それぞれが自分の肌で感じることが大切だと思っているからだ。
その中で、自分達でやるということへの意味を見つけて欲しい。
それにしても見ていて、これまで口酸っぱく「楽しめ」と言い続けてきた甲斐があったと思う。

6年生としての最後の遠征となったこの大会。
オレにとっても心地よい空間だった。
子供達と戯れ、父母会の方々と戯れ、他のチームの指導者の方々と戯れ、これまでの自分テーマの全てを網羅していた。これからのスポ少活動を、厳しいステージへと切り替えるための「良いスイッチ」となっている。
もちろん試合内容としては消化不良の部分がある。
来年度の問題点というものも見えた。
自分なりに思った事を、これからの活動の中で見て行こうと思う。

スタッフとしての活動を振り返って 後編

さて前回、父母会の側に回る事で「落とし穴」に遭遇したという話をした。
落とし穴というのはズバリ、「親的な心理」に染まってしまったことだ。
ついつい子供の気持ちを優先してしまう対応をしてしまいがちだった。
悪いことをしたとは思っていないが、ある程度の線引きをすべき所もあったはずなのに、子供達の気持ちを優先させることで、結果的に迷惑をかけることもあった。
これはスタッフとしては失格である。

それでも「親の気持ち」というものの断片でも知ることが出来たのは、今年のテーマとしては達成されたと思っている。
アニキも「もっと父母会の本音が聞ける会合を持ちたかった」と話していたように、スタッフだけで運営しているものではない「スポ少」という組織の姿として、「お互いが本音で意見交換出来る」という形を夢見るようになった。
6送会になると改めて感じる事だが、子供達だけでは成り立たないし、スタッフと子供達がいればいいというものではない。
子供達の周りにスタッフがいて、その土台を父母会が支えるという図式が理想なのかも知れない。

秋田カップに行った時、夜の会合の中で父母会長・亮弥パパが言った言葉がある。
「親は子供の送迎だけしていればいい。後は全部コーチに任せて、試合の時に全力で応援していればいいんだ。」
この言葉は、「こんなオレでも信頼してされてたんだ」と思わせる、大変ありがたい言葉だった。
親にもこれだけ信頼してもらえて、子供達からは試合で感動をもらって、スタッフとしてのオレは一体どう恩返しすればいいのかわからない。
ただ子供達には、これからのフットボール人生の中で、このスポ少時代を心に刻んでくれて、いつの日か「いい思い出話」として振り返ってくれる日が来ることを願っている。
父母会の方々には、近いうちにホントの本音でスポ少時代を振り返って話が出来る機会に恵まれる事を希望します。

今年度の良かった点・悪かった点は、次年度の活動の糧とさせて頂きます。
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