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最後の別れ Rest in peace

2018年11月26日、午後3時40分。
(診断書では午後4時24分)
父、永眠。
享年、89歳。

11月16日金曜の深夜3時。
実家の父本人から兄のところに「具合が悪い。」と一報。
兄のところからオレのところに連絡が入り、すぐさま駆けつけた。
先に到着したオレの目に入ってきたのは、すでに寝床から居間に降りてきて、お茶を飲みながらコタツに入っている父の姿だった。
容態を聞くと「・・・痛い。」と一言。
いつもならやせ我慢をする人が、素直に痛みを訴えるなんてただ事じゃないと直感し、すぐさま救急車を手配。
やがて兄も到着し、救急車も到着。
救急搬送先で、即入院と告げられる。
酸素量が少ないという指摘の元、検査してみると肺炎と診断。
この時点でほぼ絶望だろうと予感した。

入院後の二日間は、元気を無くしているものの、容態は安定していた。
翌週の月曜日の夕方、オレの所に病院から電話が入り、「容態が急変したので来てください」との事。
すぐさま車を飛ばし病院に向かうと、すでに意識を失った父の姿が。
その日は病室でずっと傍に付いていることにし、一夜が明けた。
すると朝になって突然目を開け、「オレ、死んだのか?」と話しかけてきた。
そこから一気に体調が戻り、翌日には炎症のために肺にたまっていた膿を取ることにした。
その治療も無事に終わり、酸素量も正常に戻りつつあった。
さらにそれから二日後、突然意識が薄れ、目は開けるものの、ほとんど話せなくなった。
問いかけには応えるものの、自らの意思表示が出来なくなってきた。
それから数日、体を動かしたり、目を開けてこちらを見たりするが、ほとんど眠り続けた。
そして26日の夕方。
兄と姪が見守る中、本当に眠るように息を引き取った。
結局オレは死に目に会うことは出来ず、息を引き取った10分後に到着した。

一度危うい状況になったと聞いた時、病院に向かう前に実家に寄り、仏壇に手を合わせて「まだもう少しだけ連れて行かないで」と母や祖父母にお願いした。
その間、感情を抑えることが出来ずに、ひたすら泣き続けた。
願いが通じたのか、たった数日ではあったけど、再び意思疎通出来る状態になってくれたことは、オレの心の救いとなった。
母の時と同様、いまでも亡くなったという実感が無い。
遺骨も拾い、実家には遺影も飾られ、遺品の整理にも着手し、戒名も貰って位牌に収まっているというのに。
まだ病室にいるような、いや、実家に行けばまだいるような気がしている。

89歳といえば大往生だろう。
ここまで元気に生きていてくれたことに感謝している。
親不孝者の息子だった。
スネをかじりまくって、負担ばっかりかけてきたのだろう。
戦争という辛い経験をしていたにもかかわらず、それを表に出す事無く愛情を注いでくれた。
唯一出来た親孝行は、親よりも先に死ななかったことだけ。
思い起こせば、いつも傍にいてくれた。
色んなことを教えてくれた。
少々照れくさいが、この両親の子供で本当に良かった。

何とか聞くことの出来た戦争時代の話を、残したメモを元に文章にまとめている。
どれだけの時間がかかるかわからないが、必ず書き終えようと決心した。
両親の人生を振り返り、これからの自分の生き方の指針にしようとも思っている。
そして、いつも通りの、自分自身の人生を歩む事が、両親への供養となり、感謝となり、そして安心させてやれることなのかもしれない。
そう思いながら生きていこう。

母の時と同様、父への最後の言葉。
「ありがとう。」
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さすがに弱音が・・・

連日の暑さも一因だが、またもやト○タ系列の横暴で、命を削るほどにこき使われて、完全に体調を崩してしまった・・・。
仕事以外はほぼ寝ている状態・・・。
かろうじてお盆中に実家に行ったり、1本だけ映画を観ることが出来たが、それ以外は完全に引きこもり状態。
練習に行く元気すら無い。
いったいどこまでこの奴隷制度が続くのかわからないが、いつしか終わることを祈って、今はただじっと耐えるだけだ。

それにしても、気持ちはあるのに体が動かない・・・。
書き溜めた記事を少しずつアップしようと思っていたがPCに電源を入れるのさえも億劫になっていた。
忙しさ、暑さだけではなく、これが歳を取ったということなのだろうか・・・。
たまには弱音も吐いてみたが、過去のものとなるまでは辛いもんですなぁ。

たのむ~、せめて「人間扱い」してくれ~。

気付いたら・・・49だと?

ちょっと過ぎたが、今年もとうとう歳を重ねてしまった。
まあ、歳を取ったということは、滞りなく生きているということなのだから、あまり年老いていくことを悲観する必要も無いのかも。

お祝いメッセージをくれた皆さん、ありがとうございます~。
かけがえなき親友、フットサル仲間、元教え子達、などなど。
いやはや、ありがたき幸せ。

気が付けば「49」にもなっていた訳だが、首も回らぬこのバタバタ感。
まさか「49」って「しじゅうく=始終苦」って事なのか?
そんなの嫌だぁ~!!!

追悼 西城秀樹

突然届いた訃報。
70年代を代表するアイドルで、新・御三家のひとり、西城秀樹が亡くなった。
二度の脳梗塞を患うも、歌を歌いたいという熱意を秘めて懸命にリハビリに取り組んできた。
つい最近もCS放送で出演番組を観たばかりだった。
言葉に若干の不自由が残ってしまっていたが、復帰を目指して頑張っている姿を見る事が出来た。
その矢先の訃報に、少なからずショックを受けてしまっている。
後続のミュージシャンにも多大な影響を与えており、西城秀樹の歌唱法に影響を受けたと公言する者も少なくない。
80年代中盤以降に登場した、いわゆる「ビート系」と呼ばれるバンドや、ビジュアル系バンドのボーカリストは、間違いなく秀樹の影響を受けている。
近年では「ちびまる子ちゃん」のエンディング「走れ!正直者」や、「ターンAガンダム」の主題歌「ターンAターン」など、アニメソングにも登場している。
「ちびまる子ちゃん」と言えば、まる子の姉・さきこがヒデキの大ファンという設定だった。
アニメでのさきこの声を担当していた故・水谷優子の命日が、奇しくもヒデキの命日と同じというのも恐ろしい偶然である。
歌手でありながら、ステージでのパフォーマンスにも力を入れ、アメリカに勉強しに行った事もあるほどの熱心さ。
秀樹の「熱さ」は歌だけでなく、自身の生き様にも表れていたのだろう。
努力の人だったんだと感じる今日この頃だ。

そんな秀樹の歌と言えば、大概オレと同じ世代ならば、「ヤングマン」か「ギャランドゥ」というところだろうが、兄がいた影響からか、やっぱりオレは特殊な部類で、デビュー直後の歌の印象が強い。
♪君が望むなら(ヒデキ!)、の「情熱の嵐」、デビュー曲の「恋する季節」、♪やめろと言われても、の「激しい恋」、定番の「傷だらけのローラ」、他にも「ブーツを脱いで朝食を」、「若き獅子たち」、「ブーメランストリート」などがある。
だが、オレのセレクトはいつも変化球なので、今回はこれをチョイスした。

「炎/西城秀樹(1978)」

25枚目のシングル曲。
序盤の「静」の歌い出しから、サビの激しい「動」の秀樹節に至るメリハリは、他の曲にはない振り幅がある。
改めてご冥福を。



やっぱりヒデキは熱い!

可否・六分儀 閉店

盛岡市茸出町にある喫茶店「六分儀」が閉店したという悲報が入った。
昭和の風情を残す「純喫茶」と呼ぶにふさわしい、現在では異空間とさえ思える佇まいが好きで、盛岡に行くと必ずと言っていいほど寄っていた。
コーヒー一杯で、実にゆったりとした時間を過ごす事が出来た。
店内にはシャンソンやジャズが流れ、タイムスリップした気分になれた。

六分儀_03

しかもこのシャンソンやジャズは、全て当時物のアナログレコードであり、盤面の傷やチリノイズなども聞こえてくる。
当然コーヒーも美味しい。
オレの定番は、上に生クリームを乗せた「ウィンナーコーヒー」。

六分儀_04

その日のスペシャルブレンドや、コロンビア、マンデリンなども実に美味しく頂ける店だった。
そして、レジスターではなく、店員さん自らの手書きのレシートがまた味があってイイ。
盛岡に住む人なら知らぬ人はいないと言われるほどの老舗喫茶店だった。
それだけに、閉店の知らせはあまりにもショックだった。

六分儀_06

しかもこの悲報、なんと細野晴臣のライブにて細野さんの口から聞いたのである。
喫茶店好きの細野さんは、盛岡に来ると必ず寄るという六分儀に出かけたのだが、訪れた前日に閉店したとのこと。
この話を聞いていた客席からは、「えっ!?」というどよめきが上がっていた。
もちろんオレもそのうちの一人。
その後店に行ってみると、店先には短い感謝の言葉とあいさつの言葉が書かれた貼り紙があった。

初めての細野晴臣ソロライブは、こうして悲喜こもごものライブ体験となったのである。
ああ、残念過ぎるが、新たな喫茶店を開拓しないと・・・。
またひとつ、盛岡から名店が消えた。
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